時空パン紀行 フラワーパンを求めて(1)
誰の心の中にも忘れられないパンがあることと思う。
自分の場合それは「フラワーパン」である。
金曜日は特別な日だった。
母が会議で遅くなる金曜日は、母が帰ってくるまで兄と2人で留守番をしていた。
帰りが7時〜8時ごろになってしまうため、その日のメニューは必ずカレー。
しかも、お腹が空いた時のために用意されていたものがフラワーパンだった。
もう売ってた店の名前も覚えていない。
チョコシートが幾重に折り重なった生地が丸められ、4つ山の長食パンの形になったパンだ。
表面は艶々していて香ばしい匂いがした。型に触れていたであろう面は非常によく焼けているが、ちぎった内側はしっとりとして甘い。
チョコシートとパン生地を剥がしながら食べるのもよく、また、たまには豪快にかじりつくのも良かった。
4つ山をいくつまで食べるかを兄と競ったものだった。
残った分は別の日にスライスしてトーストしたものも格別に美味しかった。
金曜日のカレー、ドラえもん、フラワーパンはセットで最高の思い出として自分の記憶に残っているのである。
そんなフラワーパンは、お店が閉店したことにより食べることは無くなった。
別の店で似たようなパンを買って食べても、あの絶妙な香ばしさ、しっかりと硬いチョコシート、薄いレイヤーには出会えなかった。
そんなことをすっかりと忘れて何年も過ごしてきた。
偶然パン作りにハマり、しばらくはどこかで食べた激うまライ麦パンの再現に凝っていた。
ある時、友人からカッティングボードを贈ってもらい、何か映えるパンを作ろうと思い、友人が好きだったチョコレートを使ってチョコシートを練り込んだパンを焼いた。
この時焼いたパンを食べた時、ふと、フラワーパンを再現できるのでは?と気づいた。
パン屋のパンはやはりプロの技ということで再現など到底不可能だと思っていたが、
ライセンスを取得し、パン作りの仕組みがわかってきた今、もう食べることができなかったフラワーパンに近いパンを作ることは不可能ではない気がした。
そうして追憶のフラワーパン研究が始まったのであった。
20200906のツイ
弱者はまず初めに優遇してほしいんじゃなく、理解してほしいんじゃなく、甘えたいんじゃなく、まずは発言に気後れしない環境がほしくて、それは声をあげないと決して手に入らないから声をあげなければいけないのだとわかった
理解や承認は必要に応じて確立されるべきだが、全て声を上げた後の話
これはある社会問題から得た意見であり小説からその着想を得たわけではないが、1984年の「自由とは2+2が4であると言える自由である。その自由が認められるならば、他の自由はすべて後からついてくる」はいつの時代も問うことができる命題であり、発言の自由という概念に普遍的な意味を与えていると思う
Tuesday Wonderlandについて語らせてくれ
Tuesday Wonderlandについて語らせてほしい
Tuesday wonderlandといえば、e.s.t.の名盤中の名盤とも言われる、と勝手に思っている。
もちろんSeven days of fallingとかが有名なんだろうなということは、各ライブの選曲頻度などからわかるのだが、
私は本当に、Tuesday Wonderlandが好きで好きでたまらない。。。
あれはまだ私が大学一年の夏、初めての軽音楽部夏合宿の帰り道のこと。
m2の先輩が運転する車の中で流れていたのはno.9のshiftだった。電子音が心地よい、サイン波にわずかにノイズがのったあの有名なサウンドが気持ちのよい車内だった。
後日、その先輩にあの車でなってたみたいな音楽好きですというと、おすすめのUSBを貸してくれた。
のちに聞くとそのUSBは伝説のUSBであり、ポストロック・エレクトロニカをこよなく愛する部員の中でかなり評価の高い、素晴らしい名盤揃いの代物だったらしい。
偶然にも1年生でそんな宝物を手に入れた私の音楽人生が、50000%いい意味でこのUSBに狂わされたのは言うまでもないだろう。
その中の1枚がTuesday Wonderlandだった。アルバムの表紙に惹かれ、1曲目を聞いた瞬間、脳に、全身に電撃が走った。
物悲しいリフ、しかしなぜか心惹かれる穏やかであり、そこには明らかな侘しさが浮かぶ、そして唐突なロングトーン、、、、、これを衝撃と言わずして、なんと言ったらいいのか。この美しさ、これは、もちろん弦バスにディストーションをかけているとか、ジャズにボウイングが使われているとか、そういうことじゃないんだ!!!(最初はそこが並からはずれていてかっこいい!!と思ったが)
そうじゃなくて、この魂を掴まれてグワングワン揺らされる感じ!なぜだかわからない。バックでなるピアノ、ドラムはあまりにもシンプルで、なんならベースもシンプルなんですけど、この調和があまりにも美しくて、こんなに不穏なのにあまりにも美しくて、、、、、、
この感覚は今聴いても明らかな存在感を持って自分の中に湧き上がる。
次につぐアルバムタイトルの曲、Dolores in shorestand、さらにはGold wrap、については今は語るのをやめておこう。今日はTuesday Wonderlandというアルバム、そしてその1曲目を飾るFading maid preludiumについて語りにきたみたいなところがある。
こういった感動をひっさげ、e.s.t.と出会ってから7年がたった。
7年の間、ちょこちょこアルバムを買ったり、live映像を見たり、幾度となく、なぜ自分はもうこの人たちの演奏を見ることが叶わないのかという絶望を味わい、自分なりにe.s.t.との思い出を深めたつもりだった。
ストリーミングサービスが一般的になり、近年自分も手に入らなかったアルバムを聴くようになった。自分にとって新しいe.s.t.との出会いは楽しいものだったが、2020年になった今、衝撃の事件が起こる。
e.s.t. symphonyとの出会いである。
これは本当に偶然で、そして再び私の感性を完膚なきまでに粉々にし、三半規管の機能を奪った。
なぜ今まで気づかなかったのか、(アーティストが共同だから検索に引っかかりにくかった)
くしくもSpotifyのこれもおすすめみたいなやつで出てきたその存在で、初めて私はSpotifyにしてよかったと心から思った!
(それまでは私がSpotify登録してない時にいけすかない奴がSpotifyでおすすめの音楽のURLを送りつけてくることが度々あって、音楽に罪はないのだがいけすかねえなと思っていたので。偏見である。ちなみにそれでもサービス選ぶときにspotifyにしたのは普通に洋楽が多いと聞いていたから)
このアルバムもまた、1曲目にFading maid Preludiumが使われている。その美しさは、Tuesday Wonderlandではいきなりあのフレーズから始まるのに対し、十分なストリングスの間、そして沈黙ののちに満を辞して奏でられる美しく擦られる主題、、、、なんて、、、いやこの、、、ピアノだからこそ、と思っていた切なさ、寂しさが、ストリングスによってこんなに生きるとは!!完全に新しい表現のような、はたまた映画音楽のような耳なじんだような、この原曲を知っているからこその驚きと、根底にある原曲のフレーズの圧倒的存在感への気づき。
心が、全身が震える。
五感が奪われるような錯覚。
音楽は時として精神と肉体に大きく干渉する。
太古から人間と共にあったものとして、決して娯楽や贅沢品などという表現ではおさまらない、音楽自身の宗教性、祈り、そういったものに改めて気づく。
人間が食べ、寝て、生きるとき、音楽は同時に存在する。
そんな感動を覚えるくら驚きましたね〜このアルバムには本当に…
書き切れないですけど続く曲は、結構原曲の流れでもライブの流れでもなく、e.s.t.の曲のいろんな主題が現れては消え、いつの間にか戻る、まあある意味ライブっぽいんですけど、シンフォニーなので非常に落ち着いて聴ける作品となっています。本当に気持ちがいい。
でもやっぱり1曲目ですね。
e.s.t. Prelude
どこまで美しいんだっていう。
アルバムも買ったので、いよいよCDプレーヤー買おうかなと思います。
Twitterに深夜あげたやつ
最近、四半世紀を生きて、そしてこの自粛期間、1人でゆっくり考える機会を得てようやく、これまで受けた人からの自分の評価、人から見た自分というものがわかってきたというか、認められるようになってきたと思う。
まず、怖いと言われるのがなんでかわかった。
なんとなくやけど。あと、自分が注ぐ興味へのエネルギーが、人より少しだけ多いのもわかった。その分、人よりも比較的人に対して興味がないのもわかった。自分は、自分が思っているよりも、あなたが望む自分であろうとしていて、一人暮らしを始めて1人になってようやく、こういう自分が楽だとか、こうしたいとかこうでありたいがよりはっきりわかった気がする。それはある種知りたくない情報を遠ざけて、自分の弱点を守ろうとする防衛なのかもしれず、本当は向き合わないといけないのかもしれない。でも人を傷つけて自分を守るよりは、自分にとっては楽な自分の守り方で、とりあえずしばらくはこの逃避を続けてもいいんじゃないかと思う。だって誰も傷つけてないから、という理由に他人が入っているうちはまだまだでしょうが。あとは、もう少しこれが好きだとか、本当はこういう話がしたいっていうのを、まだ始まっていない新しい人間関係の中にも入れていけたらいいなと。
人が生きててよかった
めちゃくちゃ偶然のことでsparkling recordsの5周年ライブに行った。
解散ライブは大学生になりたてでいけない悲しみの中
小山田さんは飛び降りた
そこから自分の中でandymoriは死んだようなもんだった
ラストアルバムを聴くのにもだいぶ時間がかかった
ALは何度も勧められたがまだ聴けていない
コピーバンドの思い出もあって、活動している小山田さんたちを生で見るのにはなかなか勇気が出なかった
が、今回偶然と勢いでライブハウスに行くことができた
定時ダッシュを決めてなお、
遅れて入った下北沢Gardenの中で小山田壮平が歌っていた
藤原寛もベースを弾いていて、
違うバンドだが知らない間に後藤大樹がドラムを叩いていた
自分のなかで止めていた世界が動き出したのがよくわかった
andymoriのメンバーは、あのときのような、張り詰めた少しでもバランスが崩れたらバラバラになってしまうようなあの尖った雰囲気はなくて、元気に生きていた
音楽をやっているとか置いといて、
最近のことはよくわからないけど
人が生きているのはいいことだと思った
自分の中のandymoriはまた変わるんやろな〜
最近のメモ
新曲を聴くとまだ体が震えるのでよかったー!と思う
こういうことされたから、こういうこといわれたから嫌というよりは
最近はそれをしたやつが嫌いだから嫌ということになりつつあるので、
今まで付き合いのあった人、嫌いになってしまったんやなあと思うことがしばしばある
また一つ世界の約束を知る
思い出の付随しない音楽の話
音楽と記憶は密接に結びついてしまうので、少しでもいいから思い出の付随しない音楽を持っておいたらいいと思う。
時にはこれ一緒に歌ったなとかコピーしたなとか、いい思い出を思い出して懐かしい気持ちにもなれるが、
逆に思い出したくないことを想起させたりもする。それは悪い思い出に限らず、いまあの人のこと考えたくないのにというときにその人を含めて流れていた音楽を聴くとどうしても頭から消えないことがある。
ただの思い出も色々な事情で思い出したくない時がある。
だから自分にとってなんの記憶もない、ただいいと思える音楽を大事にとっておくのがいい。
聴いていてその曲にのみ思いを馳せられる。